「音楽って何?」
音楽の見つめ直し
学校で音楽を教えていると、つい考えてしまうことがある。
- なぜ日本人なのに西洋音楽中心なのか
- 音楽の力とは何か
- いわゆる「感動的なもの」だけなのか
- 未だ謎が解明されていない分野にも関わらず、あまりにも一面的にしか消費されていないのではないか
- 授業でも、合唱やリコーダー、鑑賞や教科書の創作以外に、もっと別のアプローチがあるのではないか
- 教科書の内容が、西洋音楽に偏っているのではないか
- そもそもなぜ長調の曲ばかりなのか などなど。
「音楽って何?」と問いかけたとき、やさしく語りかけてくれる友人。そんな存在が、本書です。
見過ごしていたもの
西洋音楽を専門に学んできた自分にとっても、「そうだったのか」と勉強し直す場面が多々あった。例えば
なぜドビュッシーはブルターニュ地方の海の果てに沈んだイスの都の音響を、《沈める寺》での古い教会旋法の中に封じ込めようとしたのか。そしてなにより、なぜそれらの音響がコンサートホールで鳴り響く必要があったのか。それは、西洋の芸術音楽の創り手たち、および聴き手たちが、環境音、自然音に対してとても敏感であったからに他ならない。
環境音などを問題にしたサウンドスケープという考えがある。どちらかというとこれは、現代音楽や、近代社会の分野、というイメージをもっていたが、実は音楽室の壁に飾ってある方々の感性は、そもそもそうした思想をもっていたのだろう。
ヨーロッパのはるか遠くのアフリカに生息する象の牙が、いったいなぜウィーンやパリで暮らす貴族の屋敷にあるピアノの鍵盤に使われているのか。「音楽」は音楽という自律した内側の現象なのに、楽器の素材一つに着目しただけで、ヨーロッパの帝国主義と、植民地支配という音楽の外側に広がる緊張感が立ち現れる。
こうした発想は、今流行りの「SDGs」などの学習を展開する際に応用できそうだ。
言葉で語りえないものだけど
自然科学が、たとえば数学上のさまざまなフォーミュラそのものを使って、世界をどのように解読するか教えるように、オンガクそのものの形式を使って、オンガクが世界という外側とどのように関係しているのかを教えることが、なぜかこれまでの音楽科教育ではあまり触れられてこなかった。
どうしても音楽は目に見えないため、言葉で伝え合う。言葉にならないのはわかるが、言葉にすることで伝わることもある。特に教育の場面では、客観的に見とることが必要とされ、大勢を評価しなくてはいけないため、必要に迫られる場面もしばしばある。しかし、音楽教師としては、言葉に支配されないように、いつも意識をすべきである。
「音楽」 誰しも使う言葉、誰しも知っている言葉、誰しもわかっている言葉。 しかし、一人一人の思う「音楽」を耕し、広大で深い世界に誘い、世界を音楽で視るような人を育てるには、まだまだ自分は修行が足りない。
やはり永遠のテーマとして、音楽は本当に面白いと思った。
これからもよき友として、本書は何度も読み返すこととなるだろう。