音楽と教育

教育に携わる音楽好きな人間です。定期的な更新が目標です。

おおらかで繊細な感性

音楽が溢れていることがいいことか

 音楽の授業をやっていると、教え子たちには、身の回りに溢れる音に敏感になってほしいと願っている。 音楽の様々な効果や生活の中での働きなどを感じてほしいわけだが、どうにも身の回りには音楽が溢れすぎているのではないか、と感じることがある。

  • この店にこのBGM?
  • あっちからの音とこっちからの音でうるさいなぁ
  • 音量が大きすぎて会話が聞こえない …etc

そんなとき、ふとこの本の一節を思い出す。

音楽がかかっていないレストランに行ったときは、そこに何か決意が感じられて感動するんだよね。でも、大抵の店は何の意志もなく音楽を流している。

 そうですこれこれ。 細野さんの音楽家としての偉大さの、まだまだ1ミリ程も分かっていないであろう小生だが、同じようなことを感じているんだな、と大いに共感。

ほとんどの場所は何もかもが垂れ流しなんだ。今の東京はそんな音と、鼻を突くにおいが混ざった都会で、五感を不快にさせることばかり。

 そういえば最近、「五感」をキーワードにしたホテルや施設が目に付く。 何年も前から、東京は、心地よい五感の刺激を欲していたのだ。

あこがれの存在

 細野さんのように、音楽と関わって歳を重ねたいな、と思う。 東京に「音楽のための遊び場」が少ないと嘆く細野さん。

今はみんな完成された演奏をきっちり見せようとしすぎだと思う。”発表会”ばかりなんだよ。そうやって”作品”を見せることに興味はないから、僕は事前にあえて練習をせず、デイジーワールドの集いでは本番でリハーサルをするようにしています(笑)。

 音楽することそのものを楽しむ姿勢にあこがれる。 そして、輝かしいキャリアを築いていても、いくつになっても勉強熱心というところがすごい。

最近では子どもの頃に聴いていたポップ・ソングが、実はその元が一九世紀の舞踏音楽であり、時とともに曲名が変化してきたにもかかわらず、その主旋律は変化していない、という発見があった。

 いくつになっても奢らず謙虚に、新しいことを吸収していく。 そんなふうに歳を重ねていきたい。

読書の見方・考え方

見方・考え方ここにあり

 平成29年に告示された学習指導要領では、全ての教科等に「見方・考え方」というキーワードがある。例えば理科なら「理科的な見方・考え方」音楽なら「音楽的な見方・考え方」となり、各教科等の特色に応じたものごとの捉え方、考え方が示されている。 これは世の中に出たとき、つまり学校から離れて社会で生活するときにも働かせていくことが期待されている。

 で、本著である。 読書の方法が書かれているが、ここにも「見方・考え方」が示されていたのである。それは

何を考えるべきか?(視点)×どう考えるべきか?(法則)=あなたなりの結論

 なるほど、何をどう捉えて、それをどう考えるか、ということは、授業に限らず普遍的な思考法なのだな、と気がついた。

人は「視点」を通してしか、物事を考えることができません。つまり、何らかの「視点」を置かないかぎり、「思考の出発点」にすら立てません。

 「活動あって学び無し」などといわれる実践の大半は、「視点がない」「視点が示されていたが議論の内容はずれていた」「視点が人によってばらばらだ」と分類されると思われる。

本との付き合い方

したがって、「本」を「本」としてとらえるのではなく、「あらかじめ文字が印刷された、未完成の思考ドリル」ととらえて、「本とあなたの協働作業を通して完成させていくもの」と考えて、どんどん書き込んでいきましょう。

 教科書や本などを、無条件に「完成品」と見てしまっていた自分に気付く。 なるほど、書き込みなどをして、「完成させていく」のか。

 これは「教科書をどのように使うのか」という指導の工夫にヒントを与えてくれる。  そういえば自分は楽器を専門に勉強していた時期があったのだが、書き込みが少ない楽譜は練習の練度も少なく、書き込みが多い楽譜は弾きこんでいたように思う。 愛着、こだわり、思いの強さに関わってくるのであろう。

目的と手段

 最近こうした自己啓発本や読書術本などを読んでいると「アウトプットが大切」ということを共通して示されていることに気付く。 教育界でも一斉講義型授業から、子どもが主体的にアウトプットすることが求められている。

アウトプットとは、「目的」でしょうか?それとも「手段」なのでしょうか?

 著者の素朴な問いかけに、ふと立ち止まる。 私たちは、気付かぬうちに「アウトプットすること、させること」が目的化してしまっていたのではないか、と。

 そもそもアウトプット本を呼んでいる目的はなにか、仕事の役に立てるため?ならば、そもそもその仕事は何の目的か。 筆者はこう答える。

もしそうなら、働く目的は明快です。家族・友達・同僚、ひいては社会の役に立ち、多くの人から「ありがとう」「あなたがいてくれてよかった」と思ってもらえることです。

 なるほど、こんな視点があったのか。他の人のためを思うこと、自分がした仕事で感謝されることなのか、と。

 ついつい狭い了見で仕事に悩んでいたが、ふと視点を広げてものごと考えてみるよいきっかけとなった。

納得のいく読解力論

論理性と情緒性、どちらも必要

 「読解力が低下しているらしい」 教育畑にいらっしゃる方であれば、近年よく耳にする話題である。 PISAという国際的な学力調査で、日本の読解力の順位が下がったことで、新聞などメディアでも大々的に報じられた。 読解力に関する書籍も、かなりの数があるのではないだろうか。

 筆者はPISA調査の結果について、

PISA調査は日本の高校1年生全員を対象にした「全数調査」ではなく、一部の人だけを選んで調べる「標本調査」のため、今回の調査対象者の平均値は一定の幅をもって考える必要があります。そうすると504点で15位の日本は、506点で11位のスウェーデンおよびニュージーランドから、498点で20位のドイツまでのあいだで、統計的な有意差はないのです。

 と冷静に読み解きつつも、読解力の必要性はきちんと主張している。

 さて、ここから先の展開が、他の読解力本とは異なり、私が腑に落ちたところである。

しかし文学作品などの「情緒的な文章を読み解く力」、すなわち「情緒的読解力」も、読解力としてとても大事なものだと私は思うのです。

 そう、論理性だけでなく、情緒性も必要とはっきり主張してくださっているのだ。しかもそれを同じ「読解力」の括りとして、である。

 日本では来年度から、高校の国語の科目編成が再編され、高校2、3年生では選択科目が「論理国語」「文学国語」「古典探究」「国語表現」となる。 受験対策として「文学国語」を履修しない学校が増えることが懸念されている。

 こちらの記事

kapunet.hateblo.jp

でも指摘したが、とかく日本は論理的なものと情緒的なものを別物として捉え、分けた上で「必要なものは論理的(理数)なものだけよ」とでもいわんばかりの仕組みや政策が目に付く。なげかわしや・・・。

危機的状況のとき、本性がわかる

 人間、危機的状況のときに、その人の本性がわかるなどと言われる。 今般のコロナ化で様々な課題が浮き彫りとなったが、芸術に対する無理解には愕然とした。

2020年、新型コロナウイルスの感染が拡大し、世界の文化産業が大打撃を受けました。ドイツ政府は3月末、「アーティストは必要不可欠であるだけでなく、生命維持に必要なのだ」「音楽家も画家も作家も、映画・音楽関係者や書店・ギャラリー・出版社も、誰もが生き残ることを望んでいる」として、最大500億ユーロ(約6兆)に上る大規模な支援をすることを迅速に表明しました。

 これがヨーロッパとの文化の蓄積の差なのか、と思った。 一方、何十年後、何百年後に同様の問題に日本が直面したとき、「芸術こそ必要ですよ」といえば支持率が上がる、と政治家が思うくらいの国民性にするのは、教育の力が(それだけでは難しいが)必要だと強く思った次第である。

読解力を身につけるためには

ものごとを理解するいちばんの秘訣は、「アウトプット(発信)を意識したインプット(情報収集)」なのです。すなわち、なにごとも人に説明する前提で、問題意識を持って資料にあたり、深く理解する、ということです。

 これはもう、ほとんどの学校で実践しているのではないか。どのように出力、表現するかによって、何をどう捉えるか、意識をもって受け取るかが変わる。音楽や読書も同じである。

読書によって、世の中には自分とまったく違う考えの人間がいるのだということを理解し、広く受け入れる寛容の心が育ち、人間への洞察力がついていきます。立場の違う人を理解する共感力、すなわち情緒的読解力が身につくのです。

 結局筆者は、読書しなさい、ということがいいたいのだが、私が子どもの頃、こうした意見を大人が伝えてくれていれば、もっと好きになっただろうし、違う発見をしたのではないかと思う。 また、多くの学校で実施されているであろう朝読書は、なかなか理にかなった取組なのだなぁと感じた。

 「読解力」 このキーワードだけが一人歩きし、情緒的なもの、不確かなもの、感性を耕すものの価値が揺らいでいる。 今一度、冷静に、情緒的な読解力を身につけていこうではないか。

「音楽って何?」

音楽の見つめ直し

 学校で音楽を教えていると、つい考えてしまうことがある。

  • なぜ日本人なのに西洋音楽中心なのか
  • 音楽の力とは何か
  • いわゆる「感動的なもの」だけなのか
  • 未だ謎が解明されていない分野にも関わらず、あまりにも一面的にしか消費されていないのではないか
  • 授業でも、合唱やリコーダー、鑑賞や教科書の創作以外に、もっと別のアプローチがあるのではないか
  • 教科書の内容が、西洋音楽に偏っているのではないか
  • そもそもなぜ長調の曲ばかりなのか などなど。

 「音楽って何?」と問いかけたとき、やさしく語りかけてくれる友人。そんな存在が、本書です。

見過ごしていたもの

 西洋音楽を専門に学んできた自分にとっても、「そうだったのか」と勉強し直す場面が多々あった。例えば

なぜドビュッシーブルターニュ地方の海の果てに沈んだイスの都の音響を、《沈める寺》での古い教会旋法の中に封じ込めようとしたのか。そしてなにより、なぜそれらの音響がコンサートホールで鳴り響く必要があったのか。それは、西洋の芸術音楽の創り手たち、および聴き手たちが、環境音、自然音に対してとても敏感であったからに他ならない。

 環境音などを問題にしたサウンドスケープという考えがある。どちらかというとこれは、現代音楽や、近代社会の分野、というイメージをもっていたが、実は音楽室の壁に飾ってある方々の感性は、そもそもそうした思想をもっていたのだろう。

ヨーロッパのはるか遠くのアフリカに生息する象の牙が、いったいなぜウィーンやパリで暮らす貴族の屋敷にあるピアノの鍵盤に使われているのか。「音楽」は音楽という自律した内側の現象なのに、楽器の素材一つに着目しただけで、ヨーロッパの帝国主義と、植民地支配という音楽の外側に広がる緊張感が立ち現れる。

 こうした発想は、今流行りの「SDGs」などの学習を展開する際に応用できそうだ。

言葉で語りえないものだけど

自然科学が、たとえば数学上のさまざまなフォーミュラそのものを使って、世界をどのように解読するか教えるように、オンガクそのものの形式を使って、オンガクが世界という外側とどのように関係しているのかを教えることが、なぜかこれまでの音楽科教育ではあまり触れられてこなかった。

 どうしても音楽は目に見えないため、言葉で伝え合う。言葉にならないのはわかるが、言葉にすることで伝わることもある。特に教育の場面では、客観的に見とることが必要とされ、大勢を評価しなくてはいけないため、必要に迫られる場面もしばしばある。しかし、音楽教師としては、言葉に支配されないように、いつも意識をすべきである。

「音楽」  誰しも使う言葉、誰しも知っている言葉、誰しもわかっている言葉。  しかし、一人一人の思う「音楽」を耕し、広大で深い世界に誘い、世界を音楽で視るような人を育てるには、まだまだ自分は修行が足りない。

 やはり永遠のテーマとして、音楽は本当に面白いと思った。

 これからもよき友として、本書は何度も読み返すこととなるだろう。

デジタルを知り、人の価値を知る。

デジタルの特性を知る大切さ

 最近、街中でスマホタブレットを幼児にもたせ、親は別のことをやっている・・・などという光景を見ることが増えた。子育ては大変だと思う。親御さんもデジタル機器を子どもに与えておけば、大人しくなるのであればさぞ助かっているのだろう。しかしながら、どこかに不安な、もやもやした気持ちがあった。

 なにがいけないのか、具体的にわからず「けしからん」とは言えない。 ただ感覚的に、「子どもの成長に何となく悪そうだ」くらいにしか思っていなかった自分がいる。

 本書は、言語能力・読解力の視点から、デジタルネイティブの子どもたちが成長するにあたって、大人として知っておくべきデータや見解に満ちており、「何となく」感じていた不安が、読み進めるうちに少しずつ晴れていった。

人との関わりがやっぱり大切

一緒にみながら、内容についてどのように子どもと話すかが、言語習得の非常に重要な鍵だからである。

 デジタルコンテンツを子どもが視聴するにあたり、大人がどう関わるかが大切だそうだ。そういえば私も小さい頃、病院の待合室で「ノンタン」などを読みながら、様々な質問を母親に投げかけてやりとりをしていた記憶がある。

デジタルとアナログ

 本書ではしばしば、デジタルコンテンツと、従来の紙との比較が取り上げられている。私も「やっぱ紙の本だよ」と粋がっていた時代もあれば、今はなるべく電子書籍にしていたり、しかしながら参考書的なものはあえて紙で買ったりと、彷徨っている。どちらがいいか悪いか、というより、それぞれの特性を把握したい方は、ぜひ一読してほしい。

保護者は紙の本を読んだ時のほうが、子どもに多く話しかける。また、話す内容も、デジタル絵本・物語本と比べ、ストーリー内容を確認したり、コメントするような読解に直結するものが多い。

 デジタルコンテンツはその機能や視聴覚的な要素に注目してしまい、大人も注意がそれてしまうようだ。デジタルによって、よりわかりやすくなったんじゃないかと思っていたが、どうやらそうではないらしい。面白いものだ。ちなみにデジタル経験豊富な子どもの方が、そうでない子どもより、デジタル絵本を読んだときの読解力が下がる傾向があるという。大変興味深い。

語学学習の未来は

 筆者は昨今の英語教育へ一石を投じるような意見も述べている。

私たちの言語使用がますますマルチモダル化し、言語と非言語情報、話しことばと書きことばの境界線があいまいになっていく中で、脱コンテクスト化した語彙や文法のテストをしたり、リスニング、スピーキング、リーディング、ライティングといった4技能ごとの言語テストを行うことの妥当性が弱くなっていると思われる。

 大学入試や、来年度から総合得点にも反映される都立高校入試のご担当の方、最新の知見を基に、大胆に見直すことも必要なときもありますよ!

国語学習環境下では、必ずしも学習開始時期が「早ければ早いほどよい」というわけではないので、何も慌てて早期から始める必要性はない。

 公立学校が小学校高学年で必修化にしたのは、個人的には疑問でしたので、気持ちよく言い切ってくれました。

人間の価値 再認識

教師や保護者は、子どもたちの言語使用や認知スタイル・嗜好を理解した上で、こうした人間の本質性に寄り添う形でデジタル・テクノロジーを導入することにより、子どもたちが目指したいコミュニケーション能力を身につけるための橋渡しの役割を担っているのである。この橋渡しには、人間の直接介入が不可欠である。

 著者の力強い言葉から、客観的な事実に基づく研究の積み重ねによって裏付けられていることがわかる。残念ながら日本語での研究が進んでいない現状であるようだが、時代の変わり目だからこそ、日本語の読解力とデジタル機器の関係性を、経済的な配慮なく着実に取り組んでいくことが、日本の明るい未来への近道なんじゃないか。  

 教師は、デジタルコンテンツを与えるだけなく、人として関わることが肝心。まさにそれは、人にしかできないこと。教師という仕事は、本当に複雑かつ奥深いなと痛感した。

「ため込もうとしない読書」に共感

巡り巡って出会った読書記録法

 何を隠そう、私はこれまで数多の読書術・読書法を試しては、短期間で挫折している。例えば、市販のミニサイズの読書ノートをつける、日記帳に読書の記録をつける、A4サイズにまとめる、iPadのGoodnotesを活用する・・・。最も続いたのが、「紙1枚!独学法」をアレンジして読書ノートをつけていたことくらい。

 続かない原因を分析してみた。

  • 付箋をこまめに貼りすぎてしまい、結局見返さない。
  • 引用を手書きするのが億劫で、時間がかかる。
  • 「まとめノート」をつくると時間がかかる。
  • 大切だとおもうところを全て保管しておきたくなる。

などなど。 そんなとき、たまたまAmazonのおすすめで出会ったのが本作(Amazon恐るべし)。

「本に書いてあることすべてをわがものにしよう」という考え方は、こうした古い「所有」の概念の延長線上にあるように思います。

 なんて、痛いところを突かれてしまった。そういえば、私も大学生の頃は、約3000枚のCDを保有していたが、ストリーミングが一般的となり、単に量を保有していることの価値はなくなった。最近は、カーシェアリングのみならず、カメラ、家電までレンタルサービスがあるようだ。

読書は呼吸?!

吸いすぎて苦しいのであれば、息を吐けばいい。それと同じで、ひたすら「読む」だけでなく、「書く」ようにする。ただ読むだけじゃなく、「書くために読む」ことへと意識を変えるわけです。

 アウトプットが大切である、ということはよく言われていることなので、意識はしているが、呼吸に例えていて、スッと入ってきた。 著者は、引用を一枚の紙にまとめることを推奨しており、それを「1ライン・サンプリング」と命名。そして、まとまった一枚の紙を、こう表現する。

このリストは、いわば1枚の音楽アルバムのうち、自分自身の心が動いたパートだけをつなぎ合わせた「リミックス音源」のようなものです。

 なんて素敵な例えなのだろう。所々音楽で例えてくるセンスに脱帽である。

読むプロセスを楽しむ

簡単にいえば、フロー・リーディングとは、「その本に書かれた内容が、自分の内部を”流れていく”ことに価値を見出す読書法」です。

 本書の推奨する読書法は「フロー・リーディング」という。音楽を聴くように、本を読む。「体験」的に捉える。なるほど、こんなにワクワクする読書法は聞いたことがなかった。 読書を習慣化し、流し読みのコツなど、素早く読む具体的な方法が満載であるが、ゆったり読むことの大切さも伝えられている。 本を読むことへの愛が感じられる一冊である。

 さて、新たな読書法として、習慣化できるか、挑戦である。

 ちなみに、筆者が読書ノートにおすすめとしている手帳がこちら。来年度の手帳はコレに決定!

モノ・コト・ヒト

いつか自分も

 私はモノが好きである。好きであるというより、欲に負ける。 一方で、手に入った途端に熱が冷めることも多い。 これではモノが好きなのか、モノを買うことが好きなのか、分からない。 そんな私にお灸を据えてくれた言葉がこちら。

この本で僕は、日常生活の中でつきあっているモノを100選んで、そのモノとのつきあい方や出合い、想いや記憶を、あれこれと自由に書いた。

 果てして私は、語れるモノがどれほどあるのだろうか。 モノそのものの価値よりも、モノとの関わり方で生活の豊かさが違ってくるんじゃないかと、遅まきながら気が付いた。 私もこんな風に、モノと付き合っていきたいな。

豊かな考えに触れる

 そういうわけで、著者のモノが100個語られるわけだが、特別なことでなく、日常のことだけでも、その感じ方、捉え方が繊細かつ斬新な著者のモノとの出合いに触れることで、視野が広がった気分になる。

本当に好きなものほど、その理由をうまく説明することができないというが、それは本当だと思う。(べんとう箱)

 高校時代の先生に、「・・・・・・ね?」と言われて通じ合ったソレと同じことかもしれない。

旅先において、地図というものは、買うものではなく、自分で歩きまわって、自分の好きなように書いて作るものだと思っている。(地図帖となるポケットノート)

 この視点はなかった!と思い、ミニサイズの白地図が載っている手帳のようなものを購入するも、挫折。こういうことできる人、憧れます。

音楽を聴きたいとき、お茶を淹れる。お茶を飲みたいとき、音楽を選ぶ。味わうという意味で、音楽とお茶はとても似ている。(音楽と金駿眉)

 なんとなく料理・食事と音楽は似てるな、と思っていた私にとって、とっても共感した言葉。なんともスローで素敵な生活がイメージできます。ちなみにそのお茶は「チュンチュンメイ」というそうです。

 さあ、「私の100の物語」を今日から開拓していこうではないか。